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聖クレメンス1世教皇殉教者   St. Clemens Papa M.   記念日 11月 23日


 聖主イエズス・キリストは御昇天前聖ペトロを聖会の長と定め給うた時「誠にまことに汝に告ぐ、汝若かりし時自ら帯して好む所を歩み居たりしが、老いたらん後は手を伸べん。しかして他の者汝に帯して、その好まざる所に導かん」と仰せられた。これは読者も知る如く、ペトロの殉教を預言されたのであるが、果たして彼は後年ローマに於いてその恵みを蒙った。そればかりでなく、彼の後継者なる代々の教皇も始めの30人ほどは、やはり聖教の為わが生命を献げたのであった。その中殊に名高い人は、4代目の教皇聖クレメンス1世であろう。
 彼は聖ペトロから直接司教に叙階されたというが、それは兎に角、ペトロ、パウロ両大使徒と時代を同じうして生まれた彼が、彼等から聖教を伝えられると共に、またその熱烈な天主への愛を鼓吹された事は、ここに改めて言うまでもあるまい。のみならず聖パウロがフィリピの信徒に宛てた書簡中に「彼等はクレメンスと、生命の書に名を記されたる他のわが助力者と共に、我に伴いて福音の為に働きしなり」とあるのを見れば、彼が若い時からパウロを助けて、布教に尽瘁していた事がわかるのである。彼がリノ及びクレト両教皇の没後を受けて、ペトロの聖座に挙げられたにつけても、その聖会に対する功労が、余人を凌いで如何に大きいものであったか、そぞろに偲ばれるではないか。
 クレメンスが教皇の位に昇ったのは、ドミチアノ皇帝の迫害がなお終息せぬ頃の事であった。従って既に白頭の身ながら弾圧におびえる信者を励まし、敵の手に落ちた人々を慰め、カタコンブから人知れず御聖体を携行しては彼等に授けるなどしてわが牧する子羊の信仰精神を保つべく努める彼の苦労は並大抵ではなかった。そして彼は殉教致命者が出る毎にその処刑場へ行き、最後の掩祝を与える危険を与える危険をさえ敢えて冒したのである。
 その中に彼の心配はまた一つ殖えた。というのはコリントの信者間に、不和軋轢が起こった事である。教会にとっては外部の迫害よりも、内部の反目不統一が更に恐ろしい。そう思ったクレメンスは、老いに打ちふるう筆先に誠心を綴って彼等に一書を送り、さながら愛子の上を憂うる慈父の如く、諄々とその非を誡め、同教会の創立者なる聖パウロの為にも早くその争いをやめて、一致団結すべき事を諭した。コリントの信徒は之より20年ほど前にも同様な騒動を引き起こし、聖パウロの叱正により辛うじて静まった事があったが、今クレメンスの教訓に接するに及んで深く心を打たれ、やがて和解するに至った。この手紙は世にクレメンス書簡と呼ばれるもので、コリント教会内部の闘争を調停したのみならず、又ローマの司教が教会の初代から聖ペトロの後継者として全聖会に号令する権利をもっていた事を証明する貴重な資料となっている。そしてその筆致は深い信仰と愛情に充ち溢れ、旧約新約両聖書の知識に豊かな点では、使徒聖パウロを彷彿させ、質僕、謙遜な言辞の中に冒し難い力を有する点では聖ペトロを思わせるものがある。さればこの書簡は4世紀の頃まで、聖パウロのそれと同じくミサ聖祭中に朗読されたという事である。
 ドミチアノ皇帝の迫害がひとまず終わりを告げて、聖会の人々がほっと安堵の胸を撫で下ろしたのも束の間、西暦約100年頃トラヤノ皇帝の迫害が再び始まり、又も多数の信者が血を流した中に、老クレメンスも信仰の為雄々しくその生命を天主に献げた。その殉教の顛末に就いては遺憾ながら何の記録も残っていないが、先に述べた聖パウロの言葉の如く、その名を生命の書に記されたことは些かも疑いがないのである。

教訓

 聖クレメンス教皇の主イエズス・キリストに対する熱烈な愛と深い信仰を鑑とし、努めて之に倣う決心をしよう。そうすればクレメンス書簡中にある「愛と救霊との途は、我等の献物の大司祭、弱き我等の代願者にして助力者なるイエズス・キリストに他ならず」という言葉も一層明らかに悟られ、主の有難い救いを我が身に蒙る事が出来るに相違ない。